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『ブレイキング・バッド』 シーズン5 第14話:「オジマンディアス」

『ブレイキング・バッド』
シーズン5 第14話:「オジマンディアス」

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『ブレイキング・バッド』は事実上この第14話で終わったとみなしていいだろう。残る2話はここまでドラマに付き合ってきた視聴者への閉幕の挨拶にすぎない。長い物語は幕を閉じたのである

家族の将来のためにやむなく手を染めた犯罪が、皮肉にも悲劇的な形で家族を崩壊させる結果を招いた――とこのドラマを総括することはできない。もし家族のためであったなら、メス製造で十分な金を手にした時点でウォルターは犯罪から手を引いていたはずだし、そうしていたら家族崩壊という悲劇は避けられた(それではドラマにならないが…)。

ジェシー・ピンクマンは何度もウォルターに問いかけた。「もういいだろう、十分稼いだじゃないか。何が目的なんだ」と。職業的殺人者であったマイクでさえも切りのいいところで手を引いた。
しかしウォルターは、犯罪から足を洗うように頼むスカイラーを振りきってその後もメスの製造を続けた。もはや家族のためでも、金のためでもなく、才能を発揮できるメス製造こそが彼の自尊心を満足させる精神の“根拠地”となり、生きがいにもなっていたのだ。「家族のため」という当初の動機は後退し、ウォルターは“根拠地”を守るためには殺人をも厭わぬ正真正銘の犯罪者へと転落していった。
だが、ダークサイドに堕ちたにもかかわらず、一家の大黒柱として普通に家族を守り、普通に幸せな日常生活を送ることが可能と考えたウォルターの見通しの甘さが、無残な形で家族を崩壊させる結果を招いたのである。

しかし、ウォルター自身がすべては家族のためだったと思い込んでいたのは確かだろう。第14話で、追い詰められて逃亡を余儀なくされた段階でも、「まだやることがある」と彼が言ったのは、1100万ドルを自分の死後どういう方法で家族に残すことができるかという算段に違いない。家族が崩壊した後も、それでもウォルターは夫・父親としての義務を果たそうとしているのである(なんか、男という生き物はつらくて切ない)。


保険制度の不備なアメリカ社会で、余命いくばくもない癌患者の中年男が、脳性麻痺を患うティーンエージャーの長男と、これから生まれてくる長女のために何がしてやれるかと考えた時、例え犯罪に手を染めてでも彼らの将来のために必要な金を残してやりたいと思いつめた心理は理解できる。
このドラマの人気は視聴者の多くがウォルターの犯罪行動を是認したことを示している。番組が進むにつれてかなりあくどい犯罪者へと変貌したにもかかわらず、視聴者はウォルターに共感し、ウォルターを非難するスカイラーへの反発を強めた。弱者に過酷なアメリカ社会の現実にくじけず立ち向かい、やがて強者へと変貌していったウォルターの姿の中に、視聴者(おもに男たち)は男の立身出世のプロトタイプを見出したのである。最後は悲劇に終ったにせよ、ウォルターという人物を、自力で成り上がった男(self-made man)の成功物語の主人公と受け止め、そうしたウォルターにおのれの姿を投影しながら視聴者はドラマに熱中したのである。

「家族を守るためならどんなことでも許される」とする考えはアメリカ映画ではお馴染みのテーマとなっている。例えば、『96時間』のリーアム・ニーソンは誘拐された娘を救出するためパリに飛び、殺人や破壊活動といった犯罪行為をやりたい放題して暴れた。すべては娘を救出するためであり、家族のためという目的であればどんな手段であっても正当化される(べき)とする手前勝手な価値観が多くのアメリカ映画の(かなり誇張された形だが)通奏低音となっている。『ブレイキング・バッド』もその流れの中に位置するドラマである。
果たして、こうした価値観は家族愛としての美徳の一種なのか、それとも、弱者を“負け犬”として冷徹に切り捨てるアメリカ社会の底辺から聞こえてくる切ない悲鳴なのだろうか。


                *****

第14話も納得のいく展開だったが、今回は話が暗すぎてあまり楽しめなかった。
残る2話でどんな余韻を残してくれるのか、楽しみに待つことにしよう。
長い間楽しませてくれてありがとう。まれに見る傑作でした。

# by tsuigei | 2014-07-12 21:01 | 映画