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“茹で蛙”はどんな未来を夢を見ているのか

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米国の「愛国者法」と日本の「特定秘密保護法」は国民の知る権利を抑制し、監視社会を強化するという点でよく似ている。だが両者の成立過程は大きく異なっている。「愛国者法」の成立は 9.11 の同時多発テロによってショック状態に陥った米国民の隙をついて成立したいわゆるショック・ドクトリン効果によるものであった。

一方、秘密保護法は、尖閣領有権問題や防空識別圏など中国からの脅威が背景にあっても、国民はこの法律の危険性に気づいており、共同通信の世論調査を見ても80%の多数がこの法案に反対の意思を示している。一時のヒステリック状態にあった米国民が支持した愛国者法と、大半の国民が反対したにもかかわらず成立した秘密保護法とは成立過程における民主主義の有り様がまったく異なるのである。
国民の反対を握りつぶす形で秘密保護法が成立した事実は、日本の政治状況が全体主義的様相を呈してきていることのひとつの証左として受け止めるべきだろう。

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通信・監視技術が高度に発達した現代社会に成立する全体主義政治は、戦前・戦中に戻るどころか、ジョージ・オーウェルの想像の射程さえ越えた、人類がかって経験したことのないSF的恐怖社会になる可能性を否定できない。我々はヒトラーやスターリンが夜ごと夢み、チャウシェスクやポルポトも達成出来なかった完全無欠な恐怖政治の入り口に立っているのかもしれないのである。
むろん明日から突然暗黒社会がやって来るわけではない。高度テクノロジーに支えられた現代の監視社会がもたらす“見えない検閲”は、国民を萎縮させ、かっては聞こえた“軍靴の音”も秘密の鉄のカーテンの向こう側に閉ざされたまま、静かに進行していくことだろう。だが、特定秘密保護法の成立ですでに“外堀”は埋められたのであり、安倍政権は“二の矢”(共謀罪)“三の矢”(憲法破棄)でさらなる仕上げを目論んでいる。彼らは全体主義政権の完成のプランをすでに仕上げているのである。

仕上げには2020年の東京オリンピックが利用されるだろう。米国が9.11の同時多発テロをきっかけに、“テロリストとの闘い”をスローガンに国民監視を一気に強化したように、安倍政権が2020年の東京オリンピックの警備を口実に監視社会の強化を企図していることは想像にかたくない。「そんなバカな!そんなオーバーな!」と楽観視し、たかをくくっていたら、気づいたときは時すでに遅しで、我々は“茹で蛙”として真っ赤に茹で上がっていることだろう。

ナチスが権力を掌握してゆく過程を回想したニーメラー牧師の言葉を噛みしめて、未来の現実を直視すべき時なのではないか。今ならまだ間に合う。たぶん……

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「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力拒否』岩波新書)
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by tsuigei | 2013-12-13 09:46 | 政治

映画【キャプテン・フィリップス】を観て思うこと

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【注意】(この映画に“ネタバレ”に相当する内容はないと思うけど、これから観る予定の人は読まないことをお勧めします)。まず最初に断っておきたいのはこの映画は娯楽アクション大作として第一級の優れた作品であるということである。その上で書きますね。

フィリップス船長のコノテーションはフロンティアの開拓者でありソマリアの海賊は善良な開拓者を無慈悲に殺す野蛮なインディアンである。善良で罪の無い開拓者がまさに殺戮されようとする瞬間、突撃ラッパの音とともに騎兵隊が駆けつけ開拓者を救いインディアンは正義の名のもとに処刑される。以上がこの映画の梗概である。

『キャプテン・フィリップス』では、馬の代わりに駆逐艦が、騎兵隊の代わりに米海軍特殊部隊(シールズ)が駆けつけ、処刑する相手がインディアンからテロリストに変わっている点が西部劇との違いである。
この映画をフィリップス船長の個人体験として見れば彼は我々にも馴染みのある隣人であり彼に感情移入し同情することはたやすい。一方、テロリストのリーダはその容姿言動からして我々と価値観を共有しない不気味なエイリアンとして描かれている。この映画のテロリストのリーダーの外見は我々がテロリストに対してイメージしている“アイコン”にうまく適合している。彼らの風貌を見ただけで正義がどちらの側にあるか“アイコン”を通じて無言のうちに伝わるのである。

この映画は(製作者や監督が意図したかどうかは別にして)、フロンティアで起こる騎兵隊とインディアンの対立という西部劇映画の伝統的作劇の延長線上に位置づけられる映画である。そしてこの映画から伝わってくるメッセージは、フロンティアを開拓する善良で罪のない米国市民を脅かすインディアン(米国的価値観を共有しない他者)たちは文明を理解しない野蛮人と見なして容赦なく処刑殲滅する。それが米国の揺ぎない国家意思である―― というメッセージである。

21世紀になった今も、米国の“フロンティア”は果てしなく拡大しているのであり、我々はいまだにジョン・ウェインの西部劇映画と地続きの映画を楽しんでいるのである。米国は日本人も“インディアン”のカテゴリーに入れているかもしれないというのに。
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by tsuigei | 2013-12-09 09:00 | 映画

部品でありエンジンでもある大衆の存在

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岩波ホールで上映されている映画『ハンナ・アーレント』に行列ができるほど観客が駆けつけている。なぜ今ハンナ・アーレントのような一部のインテリしか馴染みのない難解な政治哲学者が注目されているのか。日本の政治状況とどのような関係があるのかを考えてみたい。

ネットには、特定秘密保護法案がらみで安部首相をヒトラーに見立てるパロディがあふれている。だが凡庸な首相でしかない安倍晋三をヒトラーに見立てるには無理があるし、ヒトラーのように単独で日本を支配している独裁者も存在しない。日本を動かしている原動力は、特定の政治家でも官僚でもない。日本中にwebのように張り巡らされた“非人格的なシステム”がエンジンであり、そのシステムが日々粛々と作動することで日本は今日も動いているのである。

そのシステムが抱えている深い闇を我々に嫌というほど見せつけたのは安倍晋三首相でも秘密保護法案の真の立案者である官僚組織でもなく、福島原発事故後表舞台に引き出されてきた原子力ムラのメンバーたちの異様とも思える言動だった。
彼らの驚くべき無責任体質とウソにまみれた発言に我々は大きな怒りを感じた。その怒りは官邸前を取り囲む大規模デモとして現れた。だが実は我々自身も原子力ムラの上位にある“日本ムラ”の住人であり、我々一人一人が日本ムラのシステムの一部分として組み込まれ、日々の仕事を通じてシステムを維持していることにも気づいたのである。原子力ムラのメンバーたちのおぞましい姿は、我々自身の姿を映し出す鏡として登場したのである。

この現実に気づいた時、ハンナ・アーレントが洞察した“悪の凡庸さ” http://goo.gl/Ucq2jq という概念と、我々の平凡な日常生活との接点がありありと見えてきたのである。我々は原子力ムラを構成する面々の無責任な言動に激しい怒りを向けたが、実は我々自身も広い意味で“当事者”の一人だったのである。分業によって構築された現代社会では個人はあらゆるものと無関係ではいられない。社会活動のあらゆるものと部品としてつながっている。社会や組織と隔絶した存在ではいられない個人のありようを“発見”し、当事者の一人としての視点を自覚する必要性を説いたのがアーレントだったのある。この“当事者の一人”としての認識を欠いた批判は真実に到達できず、その先にいかなる解決策も見いだせないと気づいた人たちがアーレントを求めたのである。

『ハリーポッター』の作者ローリングは2008年のハーバード大学の卒業講演で次のような内容のことを述べている。 http://goo.gl/MG9tNB

“他人に関心を示さず、他人の痛みを想像しようとせず、個人の経験内だけで快適に過ごすことを選び、他の環境に生まれたらどんなふうだっただろう?などどとは考えず、世の中の不快なことに心や気持ちを閉ざし、現実を知ろうとしない人間、他人と共感しようとしない人間がモンスター(独裁者)を生み出す。自分が悪事を行わなくても無関心を通して悪と共謀してしまう”と。

我々がアトムのようにバラバラに切り離された存在(大衆)であるかぎり全体主義の格好の標的とされることをアーレントはナチス支配下のドイツ研究から学んだ。大衆が独裁者を生み出したのでありヒトラーは大衆の存在がなければ生まれなかった。我々がいくら社会と関わらず一人だけで孤立して自由に生きていると思っていても、市民として生活している以上結果的に“当事者”として社会と関わることは避けられないのである。批判の矛先を政治家や官僚機構に向けると同時に自分にも向けなければならないのである。我々は小さなひとつの歯車にすぎないと同時に巨大な日本丸を動かしているエンジンでもあるのだ。なにも“一億総懺悔”を説きたいわけではない。社会には“持てる者”と“持たざる者”がいる以上両者を同列に語ることはできない。しかし特定の個人や特定の組織の責任ですますことのできない問題を抱えているところに現在の政治状況の困難さが横たわっているのである。

たとえ、当事者の一人として個人の責任を自覚したとしても、すでに定着した日本ムラの堅牢さと複雑さに困惑してしまうことだろう。このシステムの一部としての自分の存在を否定することは往々にして今の生活を捨てることにつながるからである。一部の勇気ある市民や独立して経済的地位を保てる人たちだけしかシステムの外に出ることはできないだろう。残念だが悲観的な結論しか出てこない。現代社会を構成するヒエラルキー(ホロン)http://goo.gl/ctqcrv の中で“部品”として働くことを余儀なくされている我々の立ち位置を変更することは絶望的な困難を伴うからである。

原発事故以来、この現実を突きつけられて正直なところ途方に暮れている。だがどこかに出口はあるはずだ。
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by tsuigei | 2013-12-05 13:13 | 映画