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映画「永遠の0」:新しい袋に詰められた古い酒

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観ないで批判するのもあれだから気が進まないけど観に行った。

映画は巧妙にアレンジされているが、昭和の時代に鶴田浩二がさんざん演じた「苦悩する特攻隊員物語」の亜流である。「貴様とオレとは同期の桜」物語であり、「後に残る妻子を気遣いながら戦死する男」の物語であり、「今日の日本の繁栄は戦争で闘ってくれた兵隊さんのおかげ」物語である。古い酒を新しい袋に入れなおしただけで、そこに注目に値する知見はない。


              * 

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戦闘シーンはハリウッド大作に負けない完成度の高いCGで迫力がある。現代の若者が祖父を回想する構成で、戦時と現代が交互に行き来する形になっているため、若者も年配者も世代を問わず感情移入ができる作りは巧みである(ただし、「マジソン郡の橋」の成功以降使い古された構成ではあるのだが)。また、これでもかと感動を押し付けてくる浪花節は鼻につくが、物語の伏線はひとつひとつ丁寧に回収されており、中学生でも理解できるわかりやすい(わかりやすすぎる)映画に仕上がっている。

浪花節と甘すぎる予定調和にうんざりさせられる場面が多いが、日本人は情動に訴えてくる浪花節に弱いから、人生経験が浅く歴史にうとい若者はこの映画のあざとい狙いに気づかず、非の打ち所のない人格者である主人公を巡る家族愛、悲劇的な人間ドラマ、反戦を訴える映画と映っても無理はない。さらに迫力のある戦闘スペクタクル・シーンが加わり、戦争アクションとしても見どころがあるのだから、ヒットするのもわからないではない。


              **

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だが、この映画を反戦映画として認めることができないのは、「上部構造」が徹底的に欠けている(隠されている)からである。この映画には前線の兵隊しか登 場しない。戦争を始めた政治家も、作戦命令を発令した大将も、戦略を練った大本営もいっさい出てこない。これは何を意味しているのか。

福島原発事故に例えてみるとわかりやすいだろう。
この映画に登場するのは吉田所長と現場に残った“決死隊”だけなのである。危険な現場で命がけの作業を続ける彼らの姿に焦点を当てれば共感を覚えない観客はいない。彼らの献身的な行動に感動することだろう。
だがこの映画には、彼ら以外の、東電の最高責任者である勝俣恒久会長もマスコミも、原子力安全保安院、経産省、官房長官、総理大臣も登場せず、彼らは存在しないかのようにスクリーンからかき消されているのである。

オイオイ、それはないだろうが!

「永遠の0」は、札束の力で安全神話を捏造し、長年にわたって国民を騙してきた原子力ムラの存在を隠して、福島原発事故現場の吉田所長や“決死隊”の英雄的行為だけに焦点を当てて称賛するという構造をもった映画なのである。文科省がこの映画を推薦する理由がおおいに納得できるというものである。


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「戦争体験者がいなくなった時、次の戦争が準備される」―― まさにこの警句どおり、今の日本はそうした危険な時期にさしかかっている。戦争への道を舗装している安倍晋三や石破茂、田母神俊雄、百田尚樹らはみな戦後生まれであり、戦争を体験したことのない人間である。戦争体験のないこいつら(興奮してこいつらになっちゃった)によって次の戦争が始められようとしているのである。

そして、もし戦争になっても、こいつらは、福島原発の“吉田所長”や“決死隊”が行ったような、最前線の現場で危険に身を晒し、勇敢で献身的な行為を実践することは決してないのである。安全地帯の住人たちが“進軍ラッパ”を勇ましく鳴らして若者の愛国心を煽っており、その“進軍ラッパ”に敏感に反応する若者が増えてきている。危険な政治状況にあると思わざるをえない。

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冷や飯を温めなおしたような愛国心発揚映画が若者から称賛され、大ヒットを記録し、映画の原作者が、街宣車で元航空幕僚長の選挙応援演説をし、その極右候補者が60万票獲得の予想外の大健闘を果たした。こうした昨今の状況に戦慄せずにはいられない。


★関連記事:映画「永遠の0」と「未知への飛行--フェイルセイフ」



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by tsuigei | 2014-02-14 19:18 | 政治

映画:「永遠の0」と「未知への飛行--フェイルセイフ」

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映画館で「永遠の0」を観て、これから起こるかも知れない戦争をイメージするのは、源平合戦と現代の戦争を比較するほどの時代錯誤である。攻撃目標をピン ポイントで狙うことのできる無人爆撃機が飛んでくる時代に、ゼロ戦の特攻物語に感動して愛国心を高揚させるのはこっけいですらある。

「永遠の0」を反戦映画と捉えている向きもあるが、それは勘違いである。商業映画は基本的に“ロマン主義”の性格を強くもつメディアである。“ロマン主 義”とは“物語”の魅力で観客を獲得する表現形式である。“物語”のもつ魅力で観客を感動させることのできない映画は映画として興業的に成立しないため、 そもそも制作される可能性が低い(小説などと違って映画制作は大金がかかるからね)。

ゼロ戦の特攻を素材にした映画に観客が感動したとしたら、映画のテイストが反戦的であれなんであれ、その映画は基本的に特攻を肯定しているのである。「永遠の0」がなぜヒットしているかに気づかなければならない。本当の反戦映画であれば、見終わった後残るのは憂鬱と嫌悪感だけのはずである。憂鬱と嫌悪しか感じさせない映画が商業的に大ヒットすることなどあり得ない。「永遠の0」は美しい物語でコーティングされた愛国心高揚映画なのである。

(映画「永遠の0」の論評は、★関連記事:映画「永遠の0」:新しい袋に詰められた古い酒を参照されたい)

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同じ映画を観るなら「未知への飛行-フェイルセイフ」(1964年)をお薦めする。50年前の映画だが、現代の戦争が第二次大戦とは様相を異にする新しい戦争であることを強調しており、過去の戦争観にとらわれた人間の想像力の欠如を戒めている(huluで観られる)。

この映画にも、確実に死ぬことを覚悟の上でモスクワを攻撃する英雄的なパイロットが大勢登場する。だが映画は彼らを将棋の駒として冷淡に描くだけで少しも 英雄視してはいない。むしろ、彼らは人間らしい精神を麻痺さた単細胞な軍人として否定的に描かれている。大統領や将軍たちが核戦争の阻止に必死の努力を続 けているにもかかわらず、コンピュータシステムの誤作動が発令した間違った大統領命令にロボットのように従う存在として扱われており、命を賭して任務を全 うしようとしているパイロットたちが気の毒になるほどである。

「未知への飛行」に込められたメッセージは、現代の戦争には、“ゼロ戦”やヒーローが登場する余地などなく、いっさいのロマン主義は否定されるという冷徹な現実である。
もし“ヒーロー”がいるとしても、それは人間ではなく、殺傷能力を際限なく高める科学技術である。現代の戦争への恐怖を描いた「未知への飛行」の新しさは、50年前の映画にもかかわらず、浪花節で観客の共感を誘い、愛国心を煽る「永遠の0」の時代錯誤とは雲泥の差である。

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一方で、殺人兵器は時代とともに進化しても、人間の方は第二次大戦当時とさほど変わっていないから、軍隊生活は現代の戦争下でもたぶん似たようなものだろ う。軍隊生活を知りたければ「兵隊やくざ」(1965年)や「フルメタルジャケット」(1987年)「ジャーヘッド」(2005年)をお薦めする。
軍隊とは、馬鹿な上官から日常的に理不尽な暴力を振るわれ、わけもわからず命令に服従させられる組織であり、病的なマゾヒストか、洗脳されて人間らしい感 覚の麻痺してしまった人間でないかぎり、とうてい耐えらる場所ではないことが理解できるはずだ。(むろん「兵隊やくざ」も戦争ファンタジーである。勝新太 郎という当時の大スターが活躍することで“物語”が成立しているが、実際の軍隊はこのようなヒーローの存在を許したりはしない)。

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「永遠の0」はフィクションである。プロパガンダに美化された物語による洗脳や、独善的なロマンティシズムに陥る危険を避けるためには、さまざまな視点から歴史を複眼的に学び、戦争の“目利き”にならなけらばならない。戦争娯楽フィクションに過ぎない「永遠の0」のイケメン俳優や、生き残った“同期の桜”や、彼の美しい妻に自分を重ね合わせて、愛国心を熱くさせ、憂国の士となるのはそれからでも遅くはない。

★関連記事:映画「永遠の0」:新しい袋に詰められた古い酒。
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by tsuigei | 2014-02-13 18:55 | 政治

細川さんありがとう

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藤原新也氏が「Shinya talk」で紹介しているエピソードがある。カーテンを作るために呼んだ工務店からやってきた営業の青年の話だ。

青年の真面目な仕事ぶりに感心した藤原氏は彼を近くのレストランに誘い昼食をごちそうする。そのレストランでの青年との会話から藤原氏は、この真面目で感じのいい好青年が、福島の原発事故について無知であることや、青年や青年の職場の同僚たちが福島原発についてなんの関心も抱いていないこと知り、衝撃を受ける。そして藤原氏はそこからひとつの感慨を得る。
彼のような青年がこの日本のマジョリティを形成している。それが日本の現実であり、都知事選の争点の中心は、雇用や経済=「原発よりメシの種」になり、原発問題はそれらの争点の下位に位置することになるだろう。
「この日本においては原発問題は広がりを見せないだろう……原発問題を、そして福島をわがことして考えているのは10人に1人、つまり10パーセントくらいではなかろうかと思う」と青年の話から受けた印象を結んでいる。

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即原発廃止を旗印に青天の霹靂のように出馬した細川護煕氏の獲得した票は、奇しくも藤原氏の印象を裏付けるかのような10%という数字だった。東京都の有権者総数約1000万、細川候補の獲得票が約100万。藤原氏が「10人に1人だろう」と見なした数と一致したのである。
段階的脱原発を主張していた宇都宮候補の獲得票も約100万票だったから、二人を足せば200万票だと数える人もいるだろうが、ここでは「脱原発“原理主義”候補者」*の数だけをカウントすることにし、宇都宮氏の票は加えない。宇都宮候補の目玉公約は「脱貧困・脱格差社会」であり、公約の中のひとつにすぎない「段階的原発廃止」を加えると、同様に段階的脱原発を主張していた桝添候補の票まで加えることになるからである。
(*「原理主義」という物言いは適切ではないが、話を分かりやすくするためにあえて使っている)。

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さて、以上は前置きであり、ここからが本題である(長い前置きで申し訳ない。たぶん本題の方が前置きより短くなると思うので、最後までおつき合い願いたい)。


前置きが長かったので結論を急ぐことにする
結論は、細川護煕候補が獲得した100万という票は、東京都に住む即脱原発原理主義票の全てであったということである。細川氏のこの100万は、すべての票を掘り起こした結果なのである。100万といいう数字は雪のせいでもなく、投票率が低かったせいでも、1本化ができなかったせいでもない。脱原発原理主義票は藤原氏が抱いた印象のように、もともと100万票しか存在しなかったのであり、最大値が100万であり、その100万都民が細川候補に投票したのである。

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本稿のもうひとつの眼目も急ぎ言っておこう。つまりこういうことである。
細川候補は、脱原発ワン・イシュー候補とか、即脱原発の具体性が不足しているとか政策面で批判された。候補者としても、資質や適性の面で人格も攻撃された。そして彼の獲得した100万票という数は敗北を示す指標と見なされている。
だが、そうではないのである。細川氏は脱原発原理主義都民票を見事に根こそぎ掘り起こしたのである。もともと100万票がMAXだったのであり、その100万票が細川候補の即脱原発政策を信任したのである。仮にどんなスーパーマンが出馬したとしても、過激な即脱原発を公約とするかぎり100万票がMAXだったのである。

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自民党が推す舛添要一候補に破れたため、再稼働のブレーキの役割を果たせず、安倍政権に対する一撃も達成できなかったのは残念だが、細川氏と小泉氏が選挙期間中に巻き起こした“風”と、即脱原発を望む都民の存在を可視化したこの100万という数字は、これまでの“原発について語るな。即脱原発を言う人は変な人”という同調圧力空気を一変させ、脱原発を自由に議論できる新たな土俵という副産物も生み出した。その意味でも細川氏は“勝負には敗れたが相撲には勝った”と言える。

“脱原発原理主義者”たちの本当の勝負は細川氏の今回の出馬と100万票によって実現した新たな土俵上で、都民が、国民が今後どのような相撲をとるかにかかっているのである。
細川さんありがとう。

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by tsuigei | 2014-02-12 15:12 | 政治

私たちは途方にくれている

(私にしては長いです)

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私たちは、政府がしかけた「ショック・ドクトリン」の渦中に投げ出され途方にくれているのである。3.11のあの歴史的な巨大地震・巨大津波、複数の原発事故がもたらした人類史上例のない長期的かつ継続的な放射性物質漏出による国土汚染―― そのショックに打ちのめされた私たちの意識の間隙をついて政府はさまざまな新自由主義的な施策を打ち出してきている。戦略特区構想はそのひとつである。事故直後に高まった脱原発への熱気も時間とともに熱が冷めてきており、原発事故で一度は後退したかに見えたエスタブリッシュメントの巻き返しが始まっている。

ショックドクトリンの契機となった3.11事故直後を振り返ってみよう。
放射能は目に見えず匂いもせず「直ちには人体に影響はない」。この点につけこんだ政府・マスコミ・東電・原子力ムラが、その潤沢な資金を使って国民が必要とする情報を必死になって歪曲・隠蔽している事実に気づいた国民は、日本の指導者たちのあまりの無責任さに呆然とし言葉を失った。正しい情報を外国メディアに頼るしかないこの国のメディアの情けなさに心底落胆した。SPEEDI情報は隠され、福島住民は皮肉にも放射能の移動する方向に避難した。“プルトニウムは飲んでも安全” “パニックになる” “風評被害を広げるな” “福島産品を食べて応援”、“除染して帰郷”といった恐るべきプロパガンダが猛威をふるい、一定の成果をあげて国民を惑わせ分断することに成功した。

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3.11から3年が経過した現状はどうか。事故直後のヒリヒリするようなあの恐怖と不安はなし崩しに薄れてしまった。これはやむをえない。人間の精神は生々しい恐怖を3年間も維持することができない。だが、時間の経過とともに国民が「茹で蛙」となる一方で、原子力ムラはかっての強大な力を取り戻しつつある。「即廃炉」は「段階的に廃炉」に後退し、このままでは復活した原子力ムラ勢力によって再稼働が実施され、廃炉は100年先の課題として先送りされいずれ忘れ去られることになるだろう(その前に大地震によってふたたび過酷事故が起こる可能性の方が高いと思うが)。



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安倍政権が進める戦略特区構想は国民のショック状態につけこむショック・ドクトリン(惨事便乗資本主義)そのものである。本来なら民主的手続きを経て法令を整備し国民のコンセンサスを得た上で実施すべき政策を、安倍政権/グローバル企業は民意を無視し、議論をつくすことなくブルドーザーで一気に押しつぶそうとしている。特区が実現すればグローバル企業やブラック企業の都合のいいようにさまざまな規制が撤廃され、強欲資本主義が牙をむく弱肉強食のサバンナに変えられてしまうだろう。

ショック・ドクトリンである戦略特区構想も原子力ムラ利権である原発の維持も安倍政権/グローバル企業の権益拡大が目的である。それは彼ら1%のための権益でありそこには99%の国民は含まれていない。新自由主義の台頭により強大なパワーを持つに至ったグローバル企業は政府やマスコミを懐柔することで法律を改変し国民を洗脳するまでの力を持つに至った。このグローバル企業による政府支配・マスコミ支配・国民支配=「コーポラティズム」こそ現代社会のかかえる最大の問題であり、99%の国民の真の敵である。
原発維持、経済特区構想、格差の拡大、福祉予算削減、貧困、ブラック企業の横行、非正規雇用の拡大、生活保護の“水際作戦の強化”…いずれもコーポラティズムという同根から生じた問題なのである。

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それでは、めまいがしそうなぐらい途方もなく強大な相手にどう立ち向かえばいいのか。答えはシンプルである。私たちが手にしている武器は民主主義しか無いからである。選挙で政治家を選びその政治家を選挙期間中だけでなく当選後も支持し続け、グローバル企業ではなく政治家が政治を動かせる政治状況を地道に時間をかけて構築するしかない。

だが、どの政治家を支持するにせよ、政治家はまず選挙という洗礼をうけなければならない。どんな立派な政策を掲げても選挙に勝てなければ/政治家にならなければ政策は絵に描いた餅でしかない。絵に描いた餅は食うことができず国民の飢えを満たせない。当然のことを言ってるようだが、実際はそれほど自明ではない。現実には当選を第一の目的としない候補者が立候補し、そうした候補者を支持する有権者も一定数存在するからである。

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ツイッターでは、東京都知事選を巡って宇都宮候補と細川候補のそれぞれの支持者の間で意見の対立が激化している。だがどちらの主張が正しいかの判断を下すのは容易ではない。どちらもの主張も正しい主張を含んでいると思えるからである。再稼働が目前に迫っている今、脱原発を実現し再稼働を阻止することも、国民の99%を不幸にする新戦略特区構想の阻止も、どちらも譲れない。だが、両方を同時に実現できる候補者はいるのか。宇都宮候補に広範な脱原発世論を喚起する力があるのか? 細川候補は安倍政権の経済特区構想を支持する新自由主義者ではないのか? 冒頭で「私たちは途方にくれている」と言ったのはこの意味である。

双方が正しいのであればどちらの道を選ぶべきなのか。そこが意見の対立するポイントなのだが、諸悪の根源が安倍政権/グローバル企業とするなら、都知事選であっても、脱原発を選挙公約に特化して、標的を安倍政権に定める戦術が有効なのではないか。原発問題が安倍政権/自民党との違いを際立たせる一番の争点だからである。脱原発を最優先の目的とする候補者が、原発推進を標榜する自公推薦の舛添要一候補を破ることが安倍政権への、最も分かりやすく、最も大きな打撃になるからである。


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いずれにしても、安倍政権/グローバル企業体制に風穴をあけるためには、選挙に勝つことが必要条件である。都知事選は衆参の国政選挙とは異なり、当選は一位のみで二位はない。敢闘賞も努力賞もないのである。選挙に勝たなければどうにもならないのであれば、小異を残して大同につくしかないのではないか。脱原発という選挙公約も、脱格差社会・脱貧困公約も、当選を確実にするだけの幅広い支持を得ることが難しい現実がある以上、少しでも勝つ可能性の高い候補者を支持しなければ桝添候補の有利はゆるがない。

しかし残念なことに、勝つことを最大の目的としない候補者や有権者にこの理屈は通用しない。彼らの戦略は都知事選を足がかりに長い時間をかけて究極の目的を実現していくことにある。この点が、原発問題はすでに危機的状況にあり、その時間の猶予を許さないと考える有権者との最大の相違点である。宇都宮支持にしろ細川支持にしろ、個人の支持者は選挙情勢を睨んだ上でどちらの候補者に投票するかの最終判断を下すことが考えられる。だが、組織として宇都宮氏を推薦している共産党が党の方針を変えることはまずないだろう。「一本化はありえない。都知事になるなら細川氏は佐川急便の1億円の説明責任がある」と志位和夫共産党委員長が細川候補を否定する発言をしているのだから間違いない。

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日本のスイス大使館が公開した画像

桝添候補が都知事選に勝利すれば、原発推進は都民の民意であると受け止めた安倍政権はさらに盤石の体制となり、その勢いで再稼働をすみやかに進め、いずれ憲法を改正し、彼らが戦争への道を舗装する未来を私たちは目撃することになるのかもしれない。そうはならないことを願い、強引ではあるが脱原発の一点突破に賭けた細川氏が当選し、安倍政権に風穴をあける結果になることを切望してこのテキストを書いた次第である。




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by tsuigei | 2014-01-30 13:07 | 政治

イルカ論争

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「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」

“Deeply concerned by inhumaneness of drive hunt dolphin killing. USG opposes drive hunt fisheries.”

―― 和歌山県太地町のイルカ追い込み漁を批判したキャロライン・ケネディ駐日米大使の発言をきっかけに波紋が広がっている。
仁坂和歌山知事や安部首相、菅官房長官が「これは合法的な日本の伝統漁法であり、鯨やイルカを食べるのは日本の食文化である。異なる文化を認めるべきだ」と反論したが、今のところ反対派を説得できたようには見えない。

このニュースに刺激されて人間の肉食についてあらためて考えてみた。
実はこの論争は争点がいまひとつわかりにくい。なぜ絶滅の危機に瀕しているわけでもないイルカ漁に激しく反発するのだろう。海を血で赤く染める追い込み漁法が人に残虐な印象をあたえるのは確かだ。殺す場面に焦点をあてて残虐性を演出した『ザ・コーブ』の影響も強いのかもしれない。だが抗議の理由は本当に漁法の残虐性にあるのだろうかという疑問が拭えない。米国のあるTVキャスターなどは目を吊り上げて絶叫していて、まるで親の敵を恨むかのような激しさだった。反対派が抗議する一番の理由は漁法の他にあるのではないか。そう考えないとこの激しさは理解しにくい。

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実は彼らの反対の本当の理由は漁法よりも、彼らがイルカをペットのように感じているせいではないかというのが私の推測である。可愛くて頭のいいペットを殺して食料にしていることが許せないのではないか。それなら抗議の激しさも納得がいく。
しかし、世界をみわたしても豚肉を食う日本人はけしからんと批判するイスラム教徒はいないし、牛を神聖視するヒンドゥー教徒が牛を殺すアメリカ人に抗議した話も聞かない。そこからキリスト教徒による価値観(エスノセントリズム)の一方的な押し付けではないかという反論にまで論争は広がっており、文化対立、宗教対立の様相まで見せている。

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もし彼らが言うように、漁法の残虐さが本当の理由なら、例えばフォアグラはどうなるのだろう。英国人が好むハンティングはどうなのか。美食家の舌を楽しませるために、がちょうや鴨に必要以上に餌を与える行為や、娯楽のために動物を狩る行為はある意味でもっとも残虐な行為と言えるのではないか。そもそも残虐性の度合いに境界線を引けるものだろうか。ビーフステーキによだれを垂らす人間が、その牛が屠殺される瞬間を見ると不快感で胸が悪くなるとしたら、残虐かどうかは個人的体験に依拠することになり、残虐性を計る客観的基準を決めることなどとてもできそうにない。

だがそうはいっても、すでに国際問題になってしまった以上、この問題を軽視してはなるまい。政府は諸外国に意を尽くした説明をする必要がある。漁法に改善の余地がもしあるのならその努力も必要だろう。海外で活動しているオノ・ヨーコ氏は「このイルカ問題が外国の子供たちが日本を嫌う原因になっている」と、ことの次第を憂慮するコメントを寄せている。日本の評判が悪くなって一番困るのは外国で生活している日本人である。彼らのためにも「文化の衝突」を甘く見てはならない。

■関連動画
いのちの食べ方(動画16分)
http://goo.gl/ECvHVr
フォアグラの拷問(動画13分)
http://goo.gl/gEZGr

■関連海外サイト
http://goo.gl/YwpjpC
http://goo.gl/imtP5u
http://goo.gl/O9nkXL





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by tsuigei | 2014-01-23 10:16 | 政治

基本日本語辞典【ウルマ・スクラム】(URUMA scrum)


基本日本語辞典【ウルマ・スクラム】(URUMA scrum):

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「ウルマ」とは警察官僚から麻生政権の内閣官房副長官になった漆間巌の名前からきている。
「ウルマ・スクラム」とは、特定の政治家を失脚させる目的で、行政が特捜に内部情報を密告し、特捜が捜査の着手と並行して内部情報をメディアにリークし、特捜の意を汲んだメディアが針小棒大に偏向報道を繰り返す“官・報”が一体となった一連の連携行為のことである。

偏向報道キャンペーンに煽られた国民が騒ぎ出し、逮捕・起訴・裁判に至る前に、“世間を騒がせた”あるいは“国会審議が止まってしまう”ことを理由に当該政治家が辞任し、辞任をもって“社会的制裁をすでに受けた”として特捜の捜査は終了することがお約束である。捜査の着手も捜査の終了も裁量によって行われるところが「ウルマ・スクラム」の他の先進国に例をみないきわだった特徴である。(逮捕・起訴前に当該政治家の辞任と、その時点での捜査の終了をあらかじめ想定しているため、公判維持のために必要な十全な証拠が揃っていなくても捜査を開始できるのである。)
官僚の手には「ウルマ・スクラム」のための内部情報がストックされていて最も効果的なタイミングを計って暴露する手口がデフォルトになっていると言われている。この「ウルマ・スクラム」の存在が、「日本の刑事司法は中世なみ」とあの中国からさえ揶揄されてしまう恥ずべき一因となっている。別名“ウルマ・スペシャル”とも呼ばれ、その目的の性質上、有力野党政治家が狙われるのが一般的であるが、与野党政治家を問わず官僚が政治家を恫喝する道具にもなっている。

例:西松建設事件
平成21年、漆間官房副長官は、西松建設事件で「自民党には捜査が及ばない(から安心しろ)」と発言し、実際彼の発言どおり、偽装献金の疑惑が濃厚だった自民党議員の捜査は行われず、政権交代が確実視されていた民主党党首の小沢一郎だけが「ウルマ・スクラム」に狙い撃ちにされ辞任に追い込まれた。

最近、都知事選をめぐってまたぞろ昔の「ウルマ・スクラム」を掘り返して、立候補を表明した細川護煕氏の失脚を狙う勢力が喧しい。
現状の政治資金規正法を厳密に適用すると与野党を問わず有力政治家はのきなみ「政治と金」問題で“有罪”になるだろう。それはそれで問題なのだが、問題の本質は「ウルマ・スクラム」が横行する「中世なみの日本の刑事司法」である。民主主義を脅かす深刻な問題であるにもかかわらず、本質を伝えるべきメディア自身が「ウルマ・スクラム」メンバーの一員であるため、この本質問題がなかなか国民の問題意識として前景化してこないのが現状である。




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by tsuigei | 2014-01-16 10:25 | 政治

“茹で蛙”はどんな未来を夢を見ているのか

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米国の「愛国者法」と日本の「特定秘密保護法」は国民の知る権利を抑制し、監視社会を強化するという点でよく似ている。だが両者の成立過程は大きく異なっている。「愛国者法」の成立は 9.11 の同時多発テロによってショック状態に陥った米国民の隙をついて成立したいわゆるショック・ドクトリン効果によるものであった。

一方、秘密保護法は、尖閣領有権問題や防空識別圏など中国からの脅威が背景にあっても、国民はこの法律の危険性に気づいており、共同通信の世論調査を見ても80%の多数がこの法案に反対の意思を示している。一時のヒステリック状態にあった米国民が支持した愛国者法と、大半の国民が反対したにもかかわらず成立した秘密保護法とは成立過程における民主主義の有り様がまったく異なるのである。
国民の反対を握りつぶす形で秘密保護法が成立した事実は、日本の政治状況が全体主義的様相を呈してきていることのひとつの証左として受け止めるべきだろう。

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通信・監視技術が高度に発達した現代社会に成立する全体主義政治は、戦前・戦中に戻るどころか、ジョージ・オーウェルの想像の射程さえ越えた、人類がかって経験したことのないSF的恐怖社会になる可能性を否定できない。我々はヒトラーやスターリンが夜ごと夢み、チャウシェスクやポルポトも達成出来なかった完全無欠な恐怖政治の入り口に立っているのかもしれないのである。
むろん明日から突然暗黒社会がやって来るわけではない。高度テクノロジーに支えられた現代の監視社会がもたらす“見えない検閲”は、国民を萎縮させ、かっては聞こえた“軍靴の音”も秘密の鉄のカーテンの向こう側に閉ざされたまま、静かに進行していくことだろう。だが、特定秘密保護法の成立ですでに“外堀”は埋められたのであり、安倍政権は“二の矢”(共謀罪)“三の矢”(憲法破棄)でさらなる仕上げを目論んでいる。彼らは全体主義政権の完成のプランをすでに仕上げているのである。

仕上げには2020年の東京オリンピックが利用されるだろう。米国が9.11の同時多発テロをきっかけに、“テロリストとの闘い”をスローガンに国民監視を一気に強化したように、安倍政権が2020年の東京オリンピックの警備を口実に監視社会の強化を企図していることは想像にかたくない。「そんなバカな!そんなオーバーな!」と楽観視し、たかをくくっていたら、気づいたときは時すでに遅しで、我々は“茹で蛙”として真っ赤に茹で上がっていることだろう。

ナチスが権力を掌握してゆく過程を回想したニーメラー牧師の言葉を噛みしめて、未来の現実を直視すべき時なのではないか。今ならまだ間に合う。たぶん……

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「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力拒否』岩波新書)
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by tsuigei | 2013-12-13 09:46 | 政治